謝らない男とは

「謝らない男」とは、他者を見下し、自分の非を認めず、文字通り「あやまらない」ことではありません。
自分の価値、自分の欲望、自分の生き方を、必要以上に恥じたり、謝ったりせずに生きる姿勢のことです。

人はいつのまにか、自分の感情、自分の身体、自分の愛し方、自分の男らしさや女らしさ、自分の生き方そのものを、まるでいけないことのように感じるようになり、誰かに謝りながら生きるようになります。
目立つことを謝り、強いことを謝り、弱いことを謝り、愛することを謝り、自分であることさえ謝るようになる。
「謝らない男」という言葉は、そうした自己否定の習慣から、自分を取り戻すための言葉です。

心理学的に見た「謝らない男」

心理学的に見れば、「謝らない男」とは、自己否定に支配されることなく、自分の感情、欲求、価値観を適切に認め、それらを統合して「自分らしく」生きる姿勢です。
あるがままの思いを恥じて、自分を小さくして生きることは、自分の人生を生きていることにはなりません。
「謝らない男」は、自分を見失わずに生きるための、回復の言葉なのです。

社会学的に見た「謝らない男」

社会学的に見れば、「謝らない男」とは、「こうあるべきだ」と押しつけられた規範に迎合しないためのスローガンでもあります。
現代社会では、男らしさはしばしば「トキシック・マスキュリニティ(毒の雄性)」と見なされます。
雄っぽさは、攻撃性や他者を犠牲にするものとして嫌悪され、ことさらに無毒さだけを求められ、去勢されてお花畑に押し込められてしまいます。
しかし本来の男性性は、女性性と同じく、清く美しいものです。
責任を負うこと。
愛する者を守ること。
必要なときに言葉を持つこと。
傷つきながらも立ち上がること。
そうした複雑で厚みのある生を引き受けることもまた、男の姿のひとつです。
「謝らない男」とは、そうした尊厳を回復するための言葉でもあります。

押しつけられてきた男規範(こうあるべき)

私たちは、幼い頃から数多くの「こうあるべき」を押しつけられてきました。
男は泣いてはいけない。
男は女々しくあってはならない。
男は容姿にこだわってはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
甘えてはいけない。
そして、ゲイであればなおさら、男らしさを奪われ、「中身が女の男」「女が腐った男」のような侮辱や偏見にさらされてきました。

我々男性は、男であるにもかかわらず、「男になれ」と言われて育ちました。
ところが昨今は、「雄っぽさは毒だ、無毒化しろ」と言われます。
一方でゲイは、逆に「オネエ」でなくてはならないかのように扱われ、男らしくあれば「張りぼての男だ」と侮られてしまうことさえあります。

では、どう生きればよいのでしょうか。
ゲイであろうがストレートであろうが、あるがままに、男が雄であってはいけないのでしょうか。
こうした性規範や偏見は、人間の複雑さと尊厳を踏みにじるものです。
人はもっと多層的であり、男も女も、誰もがもっと豊かで、繊細で、強く、美しく、生きてよい存在です。
「謝らない男」とは、こうした押しつけに屈せず、自分の生の輪郭を自分の手に取り戻すための言葉でもあります。

私にとっての男らしさ

私にとって男らしさとは、単に強いことではありません。
性を捨てないこと。
愛する者を守ること。
想像力と実行力を持つこと。
そして、自分の人生を、自分の責任で引き受けることです。

自分の人生を縮めず、他者の尊厳も踏みにじらず、それでもなお、自分の生と性を恥じずに立つ者。
そこに、男らしさも女らしさもなく、本来は深いところで通じ合うものがあります。
しかし同時に、男は雄であり、女は雌でもあるのです。
それを否定せずに引き受けてこそ、生きる喜びは、個々に、より深く、より美しく完成していくのです。

西方心支会 Go West の実践

西方心支会 Go West は、この理念を単なる標語としてではなく、心理支援、文化創造、交流、継承支援の実践として形にしていきます。

結び

「謝らない男」とは、自分の生と性の尊厳を、恥じることなく引き受け、人生を自分の輪郭で立ち上げていく人のことです。
迎合しない。
抑圧しない。
去勢されない。
その姿勢は、生きる力を守ります。
人が本来持っている尊厳、欲望、創造性、愛する力を、奪われることなく全うさせます。
それが、「謝らない男」なのです。

自分が自分であることを謝るな。男が雄で何が悪い。

長門宗蔵
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