1990年の8月初旬、その頃、パリ大学の寮に住んでいたのですが、何もかもが気に入らない寮生活に我慢の限界が来て、大学の夏期講習が終わるや否や、ローマに逃げました。
大学の夏期講習はオープンなのですが、修了試験に合格すれば自国の大学の単位が取れることから、近隣の学生たちが単位を取るためにやって来るのです。
すぐに友達のできる俺は、クラスメイトのうち、一番デカくて怖そうなイタリア人男性と友達になりました。何故かクラスに一人もアジア人がいなかったので、どうせ友達になるならば面白そうな人がいいと思ったのですが、いやあ、本当に面白かった。
その彼は、パリ留学中の彼女の家に居候していたのですが、何かやらかしたようで、ある日、突然、イタリアに帰るけど、一緒に行くよな?と、質問ではない投げかけに、その日の夜には、イタリア行きの夜行列車に乗っていました!
寮にはひとこと、9月末で出るからと、受付にメモを残しただけです(笑)
何もかもそのままで、イタリアへ。とはいえ、金もないし、すぐに戻ってくると思っていたのです・・・。
さて、一旦、彼の住むボローニャに行きましたが、彼の部屋は素晴らしい構造で、キッチンを入れると4部屋にルーフバルコニーまであるアパートでした。
その時に、この人はお金持ちなんだ・・・と知りました。見かけからはこんなに立派なアパートに住んでいるとは想像もつかなかった。
でもずっとそこにいるのも気が引けるので、ローマに行きたいと言ったら、実家はローマでホテルをやってるから、そこのメイド部屋に泊まれと言ってくれました。なるほど。やっぱりお金持ちだったんだ。
さて、彼のホテルは、ローマの7つの丘の一つ、サンタマリア・マッジョーレ教会の前でした。
丘の上なので、ホテルからは、サンピエトロ寺院のドームが見えて、メイド部屋は狭かったですが、居心地がいい。
そこに1ヶ月以上も滞在してしまった・・・。
宿泊代を払うと言っても聞いてくれないので、なにかお礼をしなきゃと、彼の実家に上り込んでは、よく料理を作りました。
一度、ご飯を炊いて、おにぎりを作ってあげたんです。
イタリアでは米は普通に食べますが、あのような形になるとは、想像を超えていたようで、鮭をグリルして、鮭おにぎりを作る様子を、マフィアのような親父さん以下、一家全員が、固唾をのんで見守る中で、にぎにぎしてあげた。
ベリーッシモ!と歓声をあげて、その場で食べちゃうんです。よほど美味しかったらしく、その後も何度かリクエストされました。
ローマで鮭おにぎりが出たら、あれは俺が広めたのですよ!
出ねえか(笑)
ところで、今回は、パスタのレシピを書こうと思っていたのでした。
なぜこの話をするかというと、ホテルの1階に、ディチェコの経営するデリカテッセンがあったのです。
普通に買えるパスタの中では、やはり、ぴか一に美味しいですからね、ほぼ毎日のように通いました。
生パスタも置いてあって、後は、調理済みのおかずと、ディチェコはもしかして、もともと粉屋なのか、イタリアの粉もんがずらーりとあるんです!
中でも、マフィンみたいなものが、美味しいったらありません。やはり、粉もんは、世界中で美味しいです!
一度、日本語が恋しくて、サンタマリアマッジョーレ教会で、日本人の女の子をナンパしたのです。
彼女は関東からの一人旅でしたが、ディチェコに連れて行ったら、心の底から感動していました。教会でナンパなんて、不謹慎の極みですが、ロケーションを味方につけると、女の子は非常に弱いということが、よく分かりました。
皆さん気を付けましょう!そして男性の方は、ロケーションを味方にですよ。
さて、そろそろ、ほったらかしの寮が気になりはじめた9月の末。
そうでした、俺は、寮を出なきゃいけないのです!フランスに帰らなくてはいけません。住むところも探さなきゃ。
お世話になったご家族の最後の晩餐には、無謀にもパスタを作りました。
彼の家はパスタはトマトソースという決まりでもあるのか、毎回同じ味なので、クリーム系のパスタが食べたかったのです。
やっと表題に行きつきました。ベーコンのクリームパスタ!めちゃくちゃ簡単です。そして、誰に作っても評判がいいのです。
それはそうと、忘れもしない、9月30日、日曜日の朝10時、イタリアからの夜行列車がパリのリヨン駅に到着しました。
すぐに駅のキオスクでルモンド紙を買い、駅でアパートを探しました。1軒目は断られました。俺は外国人ですからね。
2件目、「ニホンジン、だいじょーぶー」とは言いませんでしたけど、まあ、そのようなことを言われたので、即、契約して、その日中に引っ越しました。
今考えても、われながらびっくりする行動力です。
寮長はなんかぎゃあぎゃあ言っていましたが、うーん、分かりません。お元気で、オー・ルボワール!
アパートは、今度はパリの丘の上の教会の前でした。
実は凄い環境だったと、住んでから分かりましたが、帰国するまでの約5年間、そこに住みついたのでした。
つづく
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